居留地とは・・・
現在この言葉は神戸で「旧居留地」として一定区域を指している他には、通常使われていないといっていい。
過去に似たような歴史を持った横浜、長崎では現在の地名としては使われていない。
ある意味、歴史用語だと思う。例えば吉川弘文館発行の「国史大辞典 第4巻」には、下記のように定義してある。
少し長いが引用させていただく。
慣習上、または条約上外国人の居住営業を特に認めた一定区域をいう。
1・江戸時代の鎖国令後、寛永18年(1641)幕府は平戸の和蘭商館を長崎出島の埋立地へ移転させたが、これは
阿蘭陀屋敷とか出島蘭館とか出島蘭館とか呼ばれている。オランダ人も日本人もここの出入りは自由には
できなかった。また元禄2年(1689)長崎市外の十善寺谷合に唐人屋敷または唐館と呼ばれる中国人用の商館を
設け、中国人をすべてここに居住させるに至った。密貿易取締りのため中国人もみだりに長崎市内へ外出できなかった。
2・安政元年(1854)日米和親条約調印。米国商船へ欠乏品供給のため下田・箱館の二港が開かれ、また日英和親条約で
長崎港が開かれたが、幕府はいまだ外国人の居住を認めなかった。安政4年の日米条約で幕府は下田・箱館の米国人
の居住権を認めた。
3・安政5年の安政五箇国条約で開港場と開市場を定めた。
開港場・・・外国人の居住貿易のため、箱館・神奈川・長崎・兵庫・新潟または西海岸の一港の港市を開き、一区の
土地を借地し建物を購入し、住宅倉庫の建物を建てることが認められた。開港場の居留地と港規則は
外国領事と地方官憲で決め、この協議が整わない時は外交代表と日本政府とで決めることになっていた。
開市場・・・外国人の商売のため江戸・大坂の市街の一部を開き、外国人は借地を借りることが認められた。両市の
居住区域と遊歩規定は外交代表と日本政府とで決めることになっていた。
4・条約に基づき安政6年、箱館・神奈川・長崎が開港され、外国人の居住営業が認められた。
5・各地の状況
万延元年(1860)長崎奉行と外国領事とが締結した長崎地所規則が調印され、居留地は居留地委員の自治行政が
行われたが、明治9年(1876)各国の対立のため自治行政が放棄された。
また文久元年(1861)箱館地所規則には同様の条項があり、居留地委員も選出されたが、居留地が決まらず、慶応
3年(1867)この取極も廃棄された。
元治元年(1864)横浜居留地覚書で居留民の自治行政が行われたが、財政困難のため慶応3年廃止された。
明治元年の大坂兵庫外国人居留地約定書で政府は居留民の自治行政を認め、明治32年まで実施された。
慶応3年の新潟左州夷港外国人居留取極では居留地を設けず、市街に雑居した。
また開市場、東京は明治3年東京に居住する規則附録で自治行政の規定があったが実施されなかった。
以上であるが、中国や朝鮮などの居留地と異なり、外国居留民の自治行政が発達しなかった特色がある。(大山梓)
政治的には未成熟な部分が多かったが、その間に居住あるいは往来した外国人が日本にいわゆる「文明開化」の元となった
貴重な異文化を多数残したことは明らかである。 当サイトではそうした足跡をたどっていきたい。
「居留地」と似た意味で日本ではあまり使われていないが「租界」という言葉もある。参考のため同書による定義を挙げておく。
租界とは・・・
アヘン戦争後、清国の開港場、開市場において、一定国外国人、または複数国外国人共同の居留地として条約により
劃定され、当該国人または複数国人のみの土地永借権が認められた地域。永借権は、該当地域内清国人地主所有地の
買収によって得られ、土地所有権と等しいが、土地の主権が清国皇帝にあるため借地(租地)と称し、条約所定の土地税負担
の義務があった。この地域は、漢文条約本では最初、租地界址、租地界と称され、のちに租界と略称された。
租界は広州貿易時代の居留地の後を承り、1843年10月の英清「虎門追加条約」第7条に基づき、最初アモイに設定され
続いて上海の英・米両租界(のちに合併して共同租界)、仏租界、天津、鎮江、九江、漢江、広州の英租界、天津・広州の
仏租界が設定される。また下関条約第6条による、杭州・蘇州・漢口・沙市・天津・福州・アモイの日本租界、日清戦争後
侵入したドイツの天津・漢口の租界、ロシア、フランスの漢口租界。義和団事件後にロシア・イタリア・ベルギー・オーストリアハ
ンガリーの天津租界、重慶の日本租界、アモイ・コロンスの共同租界が設定。
租界に准ずるものに北京の公使館区域、日本(もとロシア)の南満州鉄道付属地などがあった。
租界には、下記のように二つに分ける方法もあるがこの区別は厳密ではない。
settlement 租界地域内で個人・法人が永借権を取得する。
concession 地域全域の永借権を一国が取得し、それを個人・法人に分売する。
租界は、治外法権をもつ租界取得国の支配化にほとんど中国官憲より独立する自治区域であるため、外国人の不法行為の
基地、中国革命党人の根拠地、中国人の内乱や官憲からの逃避地とjなり、中国主権を著しく侵害した。
第一次世界大戦によって天津のドイツ・オーストリアハンガリー両租界、漢口のドイツ租界、
ロシア革命後に天津・漢口のロシア租界
国民革命によって漢口・九江・鎮江・アモイのイギリス租界および租界に准ずるものが回収された。
(波多野善大)